2024-03-17
2010-04-06
解放運動無名戦士の墓
2010-03-02
夜桜の道
私は、急に思い立った。
その男が花見のために歩いた道を、聞いたそのままにたどって歩くことにしたのだ。
先ず京都市バスの東山三条で降りる。そして古川町商店街を通る。最近ではこのように色んなお店のある商店街は珍しい。男が花見用に買ったであろう「つまみ」の類を店頭に眺めながら南へ。
白川に出る。よくテレビにも出る、幅40センチほどの石橋をわたる。知恩院の古門をくぐる。このあたりから桜がある。きれいだ。華頂学園に向かって東へすすむ。
知恩院前。大きな大きな三門。恩師もわが先祖も浄土宗の寺に眠っている。だからこの総本山へのお参りもしなくてはとも思ったが、時刻はもう五時を過ぎていた。閉門の後でシャットアウト。
それでさらに南へ向い、いよいよ天下の桜の名所、円山公園へ入る。しだれ桜の近くはカメラの人が一杯!
私は山の方へ向い、池の橋をわたり、道なりに桜のトンネルを進む。
男はこの辺で花を賞でたのか?この石に腰かけたのか?と思いをめぐらす。友人と二人で缶ビールだったのだろうか?ワンカップも飲んだのか?とさらに想像する。
ふと目線を空に向ける。うす暗くなってきた東山に月。満月に近い。東山、桜の枝、月。思わず携帯でカシャ!!

すると、どうだろう、お月様の中に男の顔があるではないか。あーお月様に吸い込まれてしまったのか。何と静かで、きれいで清らかな、と思う。
八坂神社の裏手は、夜桜見物客のために篝火が焚かれ、屋台も出ている。男の好きなアルコールの香りも、人々の間からただよう。
境内を西へ通り抜ける。四条通りの始まる祇園石段下から、流れに逆らって雑踏を行く。南座横から川端通りを南へ。川の左岸の遊歩道にはしだれ桜と芽吹いた柳が交互にあって、都の春の錦を感じさせる。また宮川町も近いし、ちょっとなまめかしい気持ち。
鴨川には右岸の大きい料亭などの影が落ちている。それを見ながら四条大橋より一本下の団栗橋をわたると、すぐに木屋町筋と高瀬川に突き当たる。
ここがまた絶景!川はカーブを描いており、流れは浅く、速く、桜の枝は川巾を満たし、ライトアップされた花は、はらはらと散りそめ、心奪われるほど。

お月様は、東山のすぐ上空にあったけれど、今は中空に近い。私が西へ歩いただけ、お月様も西へ動いた。やっぱり顔もあった。
そこから四条河原町は目と鼻の先。京都一の目抜通り。ここからは私の生活圏。週一でデパ地下へ買物に行くところだ。
その男は桜に酔いしれた一週間後、転んだのが原因で天に登ってしまったのだった。花見の続きのように。
その男が花見のために歩いた道を、聞いたそのままにたどって歩くことにしたのだ。
先ず京都市バスの東山三条で降りる。そして古川町商店街を通る。最近ではこのように色んなお店のある商店街は珍しい。男が花見用に買ったであろう「つまみ」の類を店頭に眺めながら南へ。
白川に出る。よくテレビにも出る、幅40センチほどの石橋をわたる。知恩院の古門をくぐる。このあたりから桜がある。きれいだ。華頂学園に向かって東へすすむ。
知恩院前。大きな大きな三門。恩師もわが先祖も浄土宗の寺に眠っている。だからこの総本山へのお参りもしなくてはとも思ったが、時刻はもう五時を過ぎていた。閉門の後でシャットアウト。
それでさらに南へ向い、いよいよ天下の桜の名所、円山公園へ入る。しだれ桜の近くはカメラの人が一杯!
私は山の方へ向い、池の橋をわたり、道なりに桜のトンネルを進む。
男はこの辺で花を賞でたのか?この石に腰かけたのか?と思いをめぐらす。友人と二人で缶ビールだったのだろうか?ワンカップも飲んだのか?とさらに想像する。
ふと目線を空に向ける。うす暗くなってきた東山に月。満月に近い。東山、桜の枝、月。思わず携帯でカシャ!!
すると、どうだろう、お月様の中に男の顔があるではないか。あーお月様に吸い込まれてしまったのか。何と静かで、きれいで清らかな、と思う。
八坂神社の裏手は、夜桜見物客のために篝火が焚かれ、屋台も出ている。男の好きなアルコールの香りも、人々の間からただよう。
境内を西へ通り抜ける。四条通りの始まる祇園石段下から、流れに逆らって雑踏を行く。南座横から川端通りを南へ。川の左岸の遊歩道にはしだれ桜と芽吹いた柳が交互にあって、都の春の錦を感じさせる。また宮川町も近いし、ちょっとなまめかしい気持ち。
鴨川には右岸の大きい料亭などの影が落ちている。それを見ながら四条大橋より一本下の団栗橋をわたると、すぐに木屋町筋と高瀬川に突き当たる。
ここがまた絶景!川はカーブを描いており、流れは浅く、速く、桜の枝は川巾を満たし、ライトアップされた花は、はらはらと散りそめ、心奪われるほど。
お月様は、東山のすぐ上空にあったけれど、今は中空に近い。私が西へ歩いただけ、お月様も西へ動いた。やっぱり顔もあった。
そこから四条河原町は目と鼻の先。京都一の目抜通り。ここからは私の生活圏。週一でデパ地下へ買物に行くところだ。
その男は桜に酔いしれた一週間後、転んだのが原因で天に登ってしまったのだった。花見の続きのように。
2009-05-06
板井宗彦をしのぶ集い
元 中学校教諭 板井 宗彦 は家族が見守る中
2009年1月19日 八十五年余の生涯を終えました
ここに つつしんで皆様のご厚情に深謝するとともに
しのぶ集い のご通知を申し上げることとなりました
日時 本年5月6日(振替休日)午後2時から
会場 京都教育文化センター ホールにて
(京阪電鉄 神宮丸太町駅⑤番出口から東へ徒歩5分)
勝手ながらご芳志ご献花は固くご辞退申し上げます
2009年3月7日
板井宗彦の会
http://munehiko-kyoto.blogspot.com/
2009年1月19日 八十五年余の生涯を終えました
ここに つつしんで皆様のご厚情に深謝するとともに
しのぶ集い のご通知を申し上げることとなりました
日時 本年5月6日(振替休日)午後2時から
会場 京都教育文化センター ホールにて
(京阪電鉄 神宮丸太町駅⑤番出口から東へ徒歩5分)
勝手ながらご芳志ご献花は固くご辞退申し上げます
2009年3月7日
板井宗彦の会
http://munehiko-kyoto.blogspot.com/
2009-03-22
「ぼくの職歴」より(11)
1959年4月京都市立皆山中学校へ(3)
教組分会長5回、分会役員ずっと。前記の如く、組合の闘争つづいた中での役づきゆえ、これにてぼくはリーダーとして、また皆山を追われることになった。校長はうらまず、市教委をあらためてうらんだ。
ここでは中途6ヶ月、肺結核で入院せざるを得なかった。本来ならさらに入院ということであったが、ぼくは自己判断で、行政のストップも聞かず学校にかえった。困難に進んで当たらんとする熱意に校長がこたえて行政を説得したのだった。この入院中に徳島大学医局にいた次々弟を亡くした。惜しい弟であった。弟を失ったけれど、その前に長男誕生があった。弟は小児科医で、1年ほどの間にこの長男を2度ばかり診察してくれた。思い出深いことなり。
教組分会長5回、分会役員ずっと。前記の如く、組合の闘争つづいた中での役づきゆえ、これにてぼくはリーダーとして、また皆山を追われることになった。校長はうらまず、市教委をあらためてうらんだ。
ここでは中途6ヶ月、肺結核で入院せざるを得なかった。本来ならさらに入院ということであったが、ぼくは自己判断で、行政のストップも聞かず学校にかえった。困難に進んで当たらんとする熱意に校長がこたえて行政を説得したのだった。この入院中に徳島大学医局にいた次々弟を亡くした。惜しい弟であった。弟を失ったけれど、その前に長男誕生があった。弟は小児科医で、1年ほどの間にこの長男を2度ばかり診察してくれた。思い出深いことなり。
2009-03-21
「ぼくの職歴」より(10)
1959年4月京都市立皆山中学校へ(2)
ここでのぼくの本務は1年担任2回、2年担任3回、3年担任2回に学習・生活・就職の指導係、研修誌編集などであった。市のはじめたカウンセリング講習会には3月間10回の参加命ぜられ、その初の係にもなり、伝達などに当たった。ぼくは子どもらに教師に対する要求会や批判の会をつくらせ、大いに保障した。ぼくも随分生徒からやられた。
全国で実施強行された「学力テスト」は差別助長のみとしてみんなで極力反対。実施反対の闘争に分会は全市の先頭に立った。
卒業式は子どもが主役ということで壇上に立たせて、読み上げでなく、一席やらせた。めでたいことばかりではなく、保守ボスやら市会議員から文句あったが。
・・・つづく・・・
ここでのぼくの本務は1年担任2回、2年担任3回、3年担任2回に学習・生活・就職の指導係、研修誌編集などであった。市のはじめたカウンセリング講習会には3月間10回の参加命ぜられ、その初の係にもなり、伝達などに当たった。ぼくは子どもらに教師に対する要求会や批判の会をつくらせ、大いに保障した。ぼくも随分生徒からやられた。
全国で実施強行された「学力テスト」は差別助長のみとしてみんなで極力反対。実施反対の闘争に分会は全市の先頭に立った。
ここには特殊学級(今の養護学級)・夜間学級などもあり、担任は全国的にも名のある人々だった。ぼくもこの学級に出て教えることがあり、障害児教育の勉強もさせてもらった。
卒業式は子どもが主役ということで壇上に立たせて、読み上げでなく、一席やらせた。めでたいことばかりではなく、保守ボスやら市会議員から文句あったが。
・・・つづく・・・
2009-03-20
「ぼくの職歴」より(9)
1959年4月京都市立皆山中学校へ(1)
校長・教頭は共にベテランであった。生徒には勿論教師達へも思いやりをかけたし、親の生活苦、また無理解による不就学生家庭への訪問は、着任からずっと続いたが、ぼくがシンドくてもここでいつまでもいようと思ったのは、管理主義的態度をとらず、熱ある教師には自主性尊重でまかたぞ、で臨んでいたのが理由の一つだった。ただし6年いたが、これはできなかった。(後述)
教師の中には不意転という望まずしてここに来たものも多かった。教授・指導下手が多く、彼らは、やんちゃな子のリードは一層むつかしく、子どもばかりか仲間にも面倒をかけた。そして、しんどさと子どもの反抗にあって、わが命大事也と早く去って行った。教師集団はよく面倒を見たのだったが。
授業などの形は集団主義活動<班別学習>などであった。地域でも夜間の補習の実施があり、学生や青年有志も参加支援があった。学校では何かにつけて話し合い(会議・協議・研修の会など)が多く、それはまた長時間かけたもので、終わっても宿直室であらためてやったりした。それだけ子どもへの意思統一が大事なのだった。
・・・つづく・・・
校長・教頭は共にベテランであった。生徒には勿論教師達へも思いやりをかけたし、親の生活苦、また無理解による不就学生家庭への訪問は、着任からずっと続いたが、ぼくがシンドくてもここでいつまでもいようと思ったのは、管理主義的態度をとらず、熱ある教師には自主性尊重でまかたぞ、で臨んでいたのが理由の一つだった。ただし6年いたが、これはできなかった。(後述)
教師の中には不意転という望まずしてここに来たものも多かった。教授・指導下手が多く、彼らは、やんちゃな子のリードは一層むつかしく、子どもばかりか仲間にも面倒をかけた。そして、しんどさと子どもの反抗にあって、わが命大事也と早く去って行った。教師集団はよく面倒を見たのだったが。
授業などの形は集団主義活動<班別学習>などであった。地域でも夜間の補習の実施があり、学生や青年有志も参加支援があった。学校では何かにつけて話し合い(会議・協議・研修の会など)が多く、それはまた長時間かけたもので、終わっても宿直室であらためてやったりした。それだけ子どもへの意思統一が大事なのだった。
・・・つづく・・・
2009-03-16
「ぼくの職歴」より(8)
1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(3)
生徒は貧しいものは極く少なく、一般に温順で人なつっこく、文句はなかったけど教師の方はいやな相手が多く、これでは、ここには長く居られないかも知れないといった予感や、さらに、近くなったはずの勤務校までの距離が、妙に遠くなったといった思いが、1ヶ月もしないうちにするのだった。そして、この長く居られないかもは、別の原因が大だが、2年にして現実化したのだった。
それは「逆コースを走り出した日本」のせいであり、直接的にはぼくが組合の分会長や本部評議員となり、いわゆる「勤評闘争(これより全国で数年に及ぶ。ねらいは、教師を昔のように国の言いなりに従わせ、平和や反戦についてとやかく言わせない)」に深くかかわったためであった。ぼくらは「勤評は戦争への一里塚」を念頭に、本務はおろそかにはせず、力戦奮闘し、その結果として処分を受け、結局、不本意ながらこれに抵抗(処分返上の人事委員会闘争)しつつも、在勤2年にして郁文中を追われた。後に3年に上る生徒を残しながら。
この時追われた者5名(分会役員)で、3名は府立の高校(府は勿論勤評反対で給料もよかった)へ移り、残るぼくと1人は行き手少なく、教師不足の皆山中学校(もと小学校で、本願寺門主の子弟の教育に当るために設けられたともいわれた。そのためか、その子や付き添いに来て仕える人の控え室も設けられていた)へ希望して転じた。
ぼくは郁文中在勤中にようやく結婚した。時に36才であった。遅いというべきだが、それなりの理由?あってだった。普通人になったのである。
祇園祭の山鉾巡行・大文字送り火復活。湯川博士ノーベル賞受賞。郁文中と梅逕中の中間にある平安高校、夏の甲子園で優勝。
生徒は貧しいものは極く少なく、一般に温順で人なつっこく、文句はなかったけど教師の方はいやな相手が多く、これでは、ここには長く居られないかも知れないといった予感や、さらに、近くなったはずの勤務校までの距離が、妙に遠くなったといった思いが、1ヶ月もしないうちにするのだった。そして、この長く居られないかもは、別の原因が大だが、2年にして現実化したのだった。
それは「逆コースを走り出した日本」のせいであり、直接的にはぼくが組合の分会長や本部評議員となり、いわゆる「勤評闘争(これより全国で数年に及ぶ。ねらいは、教師を昔のように国の言いなりに従わせ、平和や反戦についてとやかく言わせない)」に深くかかわったためであった。ぼくらは「勤評は戦争への一里塚」を念頭に、本務はおろそかにはせず、力戦奮闘し、その結果として処分を受け、結局、不本意ながらこれに抵抗(処分返上の人事委員会闘争)しつつも、在勤2年にして郁文中を追われた。後に3年に上る生徒を残しながら。
この時追われた者5名(分会役員)で、3名は府立の高校(府は勿論勤評反対で給料もよかった)へ移り、残るぼくと1人は行き手少なく、教師不足の皆山中学校(もと小学校で、本願寺門主の子弟の教育に当るために設けられたともいわれた。そのためか、その子や付き添いに来て仕える人の控え室も設けられていた)へ希望して転じた。
ぼくは郁文中在勤中にようやく結婚した。時に36才であった。遅いというべきだが、それなりの理由?あってだった。普通人になったのである。
祇園祭の山鉾巡行・大文字送り火復活。湯川博士ノーベル賞受賞。郁文中と梅逕中の中間にある平安高校、夏の甲子園で優勝。
2009-03-15
「ぼくの職歴」より(7)
1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(2)
校長はやはり市中学校校長会の副会長(元工業高校数学科教師)で、学区内の地主で反動が進む市教組の教育長務める某氏や先の教育委員・地域の保守的ボス(育友会役員の多くを占める)と深くつながっているようであった。
学級数18の学校の教職員は40人近かったが、組合員は前任2校と比べるとかなり少なかった。反組合派の連中が、校長を奉り守りながら、最大事の生徒の管理・生活指導をリード(生徒は先生の言うことを聞くもの。聞かぬ者には厳罰で、彼等がつくる別室では昔ながらの問答無用で叩いたり、なぐるもあり)していたからびっくりものだった。
さらには、ここには株仲間のグループができていて、空き時間には図書室などに集まって「上った下がった。売れ買え」話。学校を出て株屋街(四条烏丸周辺の銀行・証券屋の町はごく近いところ)へ、といったこともあり、びっくりよりあきれものだった。知っているらしい教師や管理職も黙認していたのだった。この連中と戦いしこともあったが・・・。
・・・つづく・・・
校長はやはり市中学校校長会の副会長(元工業高校数学科教師)で、学区内の地主で反動が進む市教組の教育長務める某氏や先の教育委員・地域の保守的ボス(育友会役員の多くを占める)と深くつながっているようであった。
学級数18の学校の教職員は40人近かったが、組合員は前任2校と比べるとかなり少なかった。反組合派の連中が、校長を奉り守りながら、最大事の生徒の管理・生活指導をリード(生徒は先生の言うことを聞くもの。聞かぬ者には厳罰で、彼等がつくる別室では昔ながらの問答無用で叩いたり、なぐるもあり)していたからびっくりものだった。
さらには、ここには株仲間のグループができていて、空き時間には図書室などに集まって「上った下がった。売れ買え」話。学校を出て株屋街(四条烏丸周辺の銀行・証券屋の町はごく近いところ)へ、といったこともあり、びっくりよりあきれものだった。知っているらしい教師や管理職も黙認していたのだった。この連中と戦いしこともあったが・・・。
・・・つづく・・・
2009-03-06
「ぼくの職歴」より(6)
1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(1)
ここは郁文小学校からの転用で、国有数の鉄筋コンクリート三階建て校舎三棟に体育館も持っていた。四条通りの繁華街に近く、阪急電車の四条大宮駅は京の西の玄関というべく、大阪梅田までは40分。ここの歴代小学校校長は市でのトップ級で全国の小学校校長会の役員を常に出していた。そのためか中学校の校長にも大物が当てられた。梅逕区とくらべると人口密で、飲食店多く、商業さかん、繊維製品業者も多く、経済的に豊かな地区だけに、学校への寄付なども多いということであった。但し、保守党の昔からの地盤で小ボス多く、中に市の教育委員もいて、学校教師への口出し、うるさいとか。
・・・つづく・・・
ここは郁文小学校からの転用で、国有数の鉄筋コンクリート三階建て校舎三棟に体育館も持っていた。四条通りの繁華街に近く、阪急電車の四条大宮駅は京の西の玄関というべく、大阪梅田までは40分。ここの歴代小学校校長は市でのトップ級で全国の小学校校長会の役員を常に出していた。そのためか中学校の校長にも大物が当てられた。梅逕区とくらべると人口密で、飲食店多く、商業さかん、繊維製品業者も多く、経済的に豊かな地区だけに、学校への寄付なども多いということであった。但し、保守党の昔からの地盤で小ボス多く、中に市の教育委員もいて、学校教師への口出し、うるさいとか。
・・・つづく・・・
2009-03-05
「ぼくの職歴」より(5)
○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(3)
島原が近く、生徒もかなり来ておれば、家庭訪問もあって、街を勉強せり。飲みにも行った。女生徒中に、芸ごとに励む子もあり、その連中によって芸ごとの何たるかを教えられもした。
倉庫・運送業者、ところがところなれば多く、豊かな家の子もあったが、多くのは小商い・職人・サラリーマンにてその子の進学はよくできても難しく、中卒にて就職が主。大を欲してもまだ少なく、松下ナショナルの工員なども高嶺の花なればトップ級の生徒が1・2ようやくパスして喜び合いたり。このころ多くの生徒は定時制高校に進めり。ために定時制高校は花ざかりで成績もよく、いま今昔の感あり。
中央卸売市場、校区にあり、問屋の子は皆ソロバン上手にて、その中には早くも塾を開き、経営する者ありたり。この子、高卒後、信託銀行に勤めたが、後、大手製薬会社にひきぬかれ、支店長を勤めあげる。この市場でアルバイトする生徒多かりき。
学年主任など役づきやりはじめたり。役づきなど望まず、ただの教師にてよきとしたが、この時代は今の任命制などなく、民主的に選ばれたれば受けたのだった。校長・教頭などの管理職には以後、一切なく終わったが、この主任は随分よくやった、否やらされたのだった。組合分会長も。
学校周辺には戦前からの映画館あり、宝座と言い、ここにて時に生徒の映画鑑賞会。その初めは「二十四の瞳」であった。
宿直中の深夜、二代目京都駅焼失す。金閣寺放火炎焼もあって驚かされた。
在職5年、三度目の卒業生を送るのをキリに転任希望。転任校は同区隣接校。梅逕中往復のバスの中より毎朝夕目にしていた郁文中へ。
島原が近く、生徒もかなり来ておれば、家庭訪問もあって、街を勉強せり。飲みにも行った。女生徒中に、芸ごとに励む子もあり、その連中によって芸ごとの何たるかを教えられもした。
倉庫・運送業者、ところがところなれば多く、豊かな家の子もあったが、多くのは小商い・職人・サラリーマンにてその子の進学はよくできても難しく、中卒にて就職が主。大を欲してもまだ少なく、松下ナショナルの工員なども高嶺の花なればトップ級の生徒が1・2ようやくパスして喜び合いたり。このころ多くの生徒は定時制高校に進めり。ために定時制高校は花ざかりで成績もよく、いま今昔の感あり。
中央卸売市場、校区にあり、問屋の子は皆ソロバン上手にて、その中には早くも塾を開き、経営する者ありたり。この子、高卒後、信託銀行に勤めたが、後、大手製薬会社にひきぬかれ、支店長を勤めあげる。この市場でアルバイトする生徒多かりき。
学年主任など役づきやりはじめたり。役づきなど望まず、ただの教師にてよきとしたが、この時代は今の任命制などなく、民主的に選ばれたれば受けたのだった。校長・教頭などの管理職には以後、一切なく終わったが、この主任は随分よくやった、否やらされたのだった。組合分会長も。
学校周辺には戦前からの映画館あり、宝座と言い、ここにて時に生徒の映画鑑賞会。その初めは「二十四の瞳」であった。
宿直中の深夜、二代目京都駅焼失す。金閣寺放火炎焼もあって驚かされた。
在職5年、三度目の卒業生を送るのをキリに転任希望。転任校は同区隣接校。梅逕中往復のバスの中より毎朝夕目にしていた郁文中へ。
2009-03-04
「ぼくの職歴」より(4)
○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(2)
ここでの思い出
梅逕とは人呼ばず、煤煙中学という。例の狭い校庭の南裏は細道をなかにしてすぐに山陰・東海道線のレールの波が東西に走り、SLの吐く煙は風次第で校舎を襲い、あまつさえ真裏中央に給水塔などあって、そこへSLがしげく来て煙をさかんに吐くこともあって、暑い季節は勿論、他時も窓あけ不能といった具合であったから。煙には慣らされ、香には中毒にも・・・。今からはとてもとても・・・の事であった。
常に東寺の塔が仰がれた。今日は新幹線の高架が向かい側の八条通り上を走って(町こわし反対騒ぎの後)塔どころではなくなったが。
京都駅は学校から東へ東山を望みながら歩いて7・8分のところにあり、西には、大宮通りが鉄道を越えて渡る高架橋の隣から広い梅小路の貨物駅(今は公園化)、機関庫(今はSLの有名な博物館)や鉄道員宿舎が並ぶ。貨物駅への車馬の出入りは終日にて、特に朝ひんぱん。通勤時、貨車より降ろされて屠殺場へ引かれてゆく牛群を見るのはかなしかった。
鉄道員の家庭からの生徒多く、SLの機関士がPTAの役員するもあり、中に2~3人、お召列車のすぐれた運転士もいて、親しく交際できたはうれしきことだった。
・・・つづく・・・
ここでの思い出
梅逕とは人呼ばず、煤煙中学という。例の狭い校庭の南裏は細道をなかにしてすぐに山陰・東海道線のレールの波が東西に走り、SLの吐く煙は風次第で校舎を襲い、あまつさえ真裏中央に給水塔などあって、そこへSLがしげく来て煙をさかんに吐くこともあって、暑い季節は勿論、他時も窓あけ不能といった具合であったから。煙には慣らされ、香には中毒にも・・・。今からはとてもとても・・・の事であった。
常に東寺の塔が仰がれた。今日は新幹線の高架が向かい側の八条通り上を走って(町こわし反対騒ぎの後)塔どころではなくなったが。
京都駅は学校から東へ東山を望みながら歩いて7・8分のところにあり、西には、大宮通りが鉄道を越えて渡る高架橋の隣から広い梅小路の貨物駅(今は公園化)、機関庫(今はSLの有名な博物館)や鉄道員宿舎が並ぶ。貨物駅への車馬の出入りは終日にて、特に朝ひんぱん。通勤時、貨車より降ろされて屠殺場へ引かれてゆく牛群を見るのはかなしかった。
鉄道員の家庭からの生徒多く、SLの機関士がPTAの役員するもあり、中に2~3人、お召列車のすぐれた運転士もいて、親しく交際できたはうれしきことだった。
・・・つづく・・・
2009-03-03
「ぼくの職歴」より(3)
○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(1)
ところは下京区七条大宮下る200米余の地。ここは広大な兵舎跡の学舎でなく、元青年学校跡で、方7~80米校域の中に南からちょっとした幼稚園並みの校庭(運動会時に50米の走路が何とか・・・)、それより北へ木造の古びた二階建て(下が教員室など、二階は教室)、講堂、さらに二階建てが二つ並び、教室(40人で満杯)数は16。何とも狭く窮屈な感じしたが、すぐになれて、狭いながらもわが家でここに5年。はじめから3年担任2年連続、そして1・2・3年と上って計3回も卒業生を出すことになった(今、はじめの卒業生71才)。いわゆる「すしづめ教室」時代で、貧しくもあったが、教師生徒ともによくがんばったし、意外に明るかった。前途に新日本建設の夢を見ていたから、!たしかに、この子らがそれからの新日本の働き手となっていったのだった。
・・・つづく・・・
ところは下京区七条大宮下る200米余の地。ここは広大な兵舎跡の学舎でなく、元青年学校跡で、方7~80米校域の中に南からちょっとした幼稚園並みの校庭(運動会時に50米の走路が何とか・・・)、それより北へ木造の古びた二階建て(下が教員室など、二階は教室)、講堂、さらに二階建てが二つ並び、教室(40人で満杯)数は16。何とも狭く窮屈な感じしたが、すぐになれて、狭いながらもわが家でここに5年。はじめから3年担任2年連続、そして1・2・3年と上って計3回も卒業生を出すことになった(今、はじめの卒業生71才)。いわゆる「すしづめ教室」時代で、貧しくもあったが、教師生徒ともによくがんばったし、意外に明るかった。前途に新日本建設の夢を見ていたから、!たしかに、この子らがそれからの新日本の働き手となっていったのだった。
・・・つづく・・・
2009-01-31
「ぼくの職歴」より(2)
○1948年10月31日 京都市立藤森中学校へ赴任(伏見区)
はじめ6ヶ月助教諭、一年生担当。翌年正教員となり、一年生を担当(男女共学にて、男20女20余)。併せて2・3年の国語も教える。
学舎は旧第16師団野砲隊跡にて、旧内務班の教室は外側の窓ガラス破れ、内側の廊下に面した速成窓は障子ばり。
新設のため校舎難。旧小学校舎転用、兵営使用しても不足につき、当中学校は砂川、竹田、藤森以外の月輪中学校と共同使用(1年余)で、学級数は30近く、生徒数は1000余。教師は40名余(旧小、中教員に新採用者、軍隊がえりの軍服軍靴・戦闘帽などの着用多)。雑然たる趣あるも、若き新採用教員のはりきりにて活気ありたり。
生徒は男の子より共学となりし女の子が溌剌。1年生女性が生徒会の会長立候補。わがクラスより副会長を出したことなつかし。今その子70代にて元気なり。
学校内は広く、南方後に近鉄が走り、北には旧練兵場(今は団地などの住宅地)、兵営跡(龍谷大・警察学校)、稲荷神社あって、北面する校門に立てば、北西にアタゴ山、北東にヒエイ山及び東山の峰が遠望されたり。
ぼくは当時、平安京の大極殿跡・二条城すぐ近くに住んでいたから、通勤は市電チンチン電車にて京都駅に出、伏見線に乗りかえて竹田駅下車、そこより徒歩10分で学校といった具合で、計およそ7・80分余りを要した。このために、別れづらかったが、2年に上がるクラス生を残して水くさくも1950年春、藤森中学校を去った。
志して教師になったこと、まことによしとしみじみ。三日にしてこれは生涯を賭けての仕事(天職?)と思いしこと。
授業の経験皆無ながら初めより、小中での体験の見よう見まねでうまくこなし得たりし(新米なれば時に授業指導の講習などあるも、さしたる恩恵は感じず)こと。軍隊での班長、分隊長としての兵教育や指導の苦労の益多々あり。
教え子と同じく民主主義ははじめてなれば、共に学ぶ如き感あり、それをうれしく、楽しく思いしことしばしば。新憲法についても同じく、折から文部省より出された「新憲法の話」については自らもよく学んで、その精神は以後の人生の指針となった。
時に臨時で社会科を教えることもあり、歴史科教師にたずね学ぶことも多く、皇国史観からの脱汚染を得たり。 時にかってめぐりし奈良の史跡(留年までしてめぐりし)に親しき教師仲間を連れ出し、大いに新日本を語りながら歩きたること。今盛んな正倉院展の第一回は、我もはじめてなれば、ただ一人にて行き、伝統文化について知ること多かりし。
若い新採教員の仲間から知友、親友を得たること。その中にはじめて社会科学をぼくに教えるものあり、大いに目を開かれたり。これは教員組合に入っていった大きな要因であり、以後定年までつづき、以後退職後の今も何かと御縁続行中。
知親友の中に文学を好むものあり、誘われて彼らのつくる同人誌に参加し、柄にもなくもの書き出し、今も何かと付き合い、折々に筆執っているのは、ここからであった。
酒が呑める自分を知り、好きにもなる。溺れることも仕事をだめにすることもなかった(ほんとう?)が、以来60年、未だにタバコと同じくやめ得ざることとなれり。
ここでの校長は内藤孫三郎。明治生まれ、丹波産で戦前よりの教師で、付属小学校訓導、女学校・女子師範教諭、視学官を経て、戦後、不適格にもならず新制中学校校長となっただけに経験豊富は勿論、先生の先生たる視学でもあったゆえに学習指導・生活指導にも練達で、その教えるところは新米のぼくにありがたかった。好学の努力家は、英語の時代来るゆえにその習得のために自らの英語科教師を立てて英語クラブをつくり、教師たちに学習奨励、校長室へ、昼休み放課後などに集めては、先頭になって学んでいた。年寄りの冷や水とぼくはひやかしたりしたが、内心では感銘覚えていた。
この後、あまりすぐれた校長には出会えなかったが、明治生まれのこの校長には、よくけんかもしたが、心ひかれもした。
内藤氏との個人的かかわりについて少し触れておくことにする。それは、わが母方の叔父小母4人が小学校で彼の世話になっており、それが彼の思いに残り、君はあのよき子達の甥か、といってぼくに好意をよせてくれたのだった。出来ぬ子のぼくは誇りと共につたなき我にコンプレックスを感じたが・・・彼は退職後、友の経営する私立女子高を手伝い、数学を教えたが、そこへわが妻が被服科教師として勤めて彼を知ることになり、そして「孫さん孫さん」と愛称で呼ぶことにもなっていったのだった。彼は百近くでなくなった。
はじめ6ヶ月助教諭、一年生担当。翌年正教員となり、一年生を担当(男女共学にて、男20女20余)。併せて2・3年の国語も教える。
学舎は旧第16師団野砲隊跡にて、旧内務班の教室は外側の窓ガラス破れ、内側の廊下に面した速成窓は障子ばり。
新設のため校舎難。旧小学校舎転用、兵営使用しても不足につき、当中学校は砂川、竹田、藤森以外の月輪中学校と共同使用(1年余)で、学級数は30近く、生徒数は1000余。教師は40名余(旧小、中教員に新採用者、軍隊がえりの軍服軍靴・戦闘帽などの着用多)。雑然たる趣あるも、若き新採用教員のはりきりにて活気ありたり。
生徒は男の子より共学となりし女の子が溌剌。1年生女性が生徒会の会長立候補。わがクラスより副会長を出したことなつかし。今その子70代にて元気なり。
学校内は広く、南方後に近鉄が走り、北には旧練兵場(今は団地などの住宅地)、兵営跡(龍谷大・警察学校)、稲荷神社あって、北面する校門に立てば、北西にアタゴ山、北東にヒエイ山及び東山の峰が遠望されたり。
ぼくは当時、平安京の大極殿跡・二条城すぐ近くに住んでいたから、通勤は市電チンチン電車にて京都駅に出、伏見線に乗りかえて竹田駅下車、そこより徒歩10分で学校といった具合で、計およそ7・80分余りを要した。このために、別れづらかったが、2年に上がるクラス生を残して水くさくも1950年春、藤森中学校を去った。
志して教師になったこと、まことによしとしみじみ。三日にしてこれは生涯を賭けての仕事(天職?)と思いしこと。
授業の経験皆無ながら初めより、小中での体験の見よう見まねでうまくこなし得たりし(新米なれば時に授業指導の講習などあるも、さしたる恩恵は感じず)こと。軍隊での班長、分隊長としての兵教育や指導の苦労の益多々あり。
教え子と同じく民主主義ははじめてなれば、共に学ぶ如き感あり、それをうれしく、楽しく思いしことしばしば。新憲法についても同じく、折から文部省より出された「新憲法の話」については自らもよく学んで、その精神は以後の人生の指針となった。
時に臨時で社会科を教えることもあり、歴史科教師にたずね学ぶことも多く、皇国史観からの脱汚染を得たり。 時にかってめぐりし奈良の史跡(留年までしてめぐりし)に親しき教師仲間を連れ出し、大いに新日本を語りながら歩きたること。今盛んな正倉院展の第一回は、我もはじめてなれば、ただ一人にて行き、伝統文化について知ること多かりし。
若い新採教員の仲間から知友、親友を得たること。その中にはじめて社会科学をぼくに教えるものあり、大いに目を開かれたり。これは教員組合に入っていった大きな要因であり、以後定年までつづき、以後退職後の今も何かと御縁続行中。
知親友の中に文学を好むものあり、誘われて彼らのつくる同人誌に参加し、柄にもなくもの書き出し、今も何かと付き合い、折々に筆執っているのは、ここからであった。
酒が呑める自分を知り、好きにもなる。溺れることも仕事をだめにすることもなかった(ほんとう?)が、以来60年、未だにタバコと同じくやめ得ざることとなれり。
ここでの校長は内藤孫三郎。明治生まれ、丹波産で戦前よりの教師で、付属小学校訓導、女学校・女子師範教諭、視学官を経て、戦後、不適格にもならず新制中学校校長となっただけに経験豊富は勿論、先生の先生たる視学でもあったゆえに学習指導・生活指導にも練達で、その教えるところは新米のぼくにありがたかった。好学の努力家は、英語の時代来るゆえにその習得のために自らの英語科教師を立てて英語クラブをつくり、教師たちに学習奨励、校長室へ、昼休み放課後などに集めては、先頭になって学んでいた。年寄りの冷や水とぼくはひやかしたりしたが、内心では感銘覚えていた。
この後、あまりすぐれた校長には出会えなかったが、明治生まれのこの校長には、よくけんかもしたが、心ひかれもした。
内藤氏との個人的かかわりについて少し触れておくことにする。それは、わが母方の叔父小母4人が小学校で彼の世話になっており、それが彼の思いに残り、君はあのよき子達の甥か、といってぼくに好意をよせてくれたのだった。出来ぬ子のぼくは誇りと共につたなき我にコンプレックスを感じたが・・・彼は退職後、友の経営する私立女子高を手伝い、数学を教えたが、そこへわが妻が被服科教師として勤めて彼を知ることになり、そして「孫さん孫さん」と愛称で呼ぶことにもなっていったのだった。彼は百近くでなくなった。
2009-01-30
「ぼくの職歴」より(1)
主として35年に渡った京都市立新制中学校 ― 戦後の新学制・義務教育はこれより中学校三年間を加えて6・3制になり、中学校は1947年(昭和22年)4月スタート
― の国語科教員としての経歴である。
※教員になるまでの経歴
京都府立(旧制)桃山中学校を1942年春卒業、天理外語(天理大学)支那語科に進学す。これは母方の祖父が信徒であり、教会主でもあって、できればその後継者たらしめんとした意図を受けてであった。
中国語を選んだのは、漢文好きに加えて中国好きもあってであるが、いずれ兵となれば中国の戦線へやられると推定し、その時に役立つかもとも思っていたからである。しかし教会にはついにかかわらなかった。
ただし、中国語はおもしろからず、専門外の国語や文学の方に傾き、あまつさえ、学校周辺に多々ある古代大和の史跡、社寺に大層興味を感じ、1年時後半は原留覚悟で読書や歴史めぐりに。
そこへ思わざる学徒出陣(文科系学生の徴兵延期の恩典、戦局重大化で廃止。1943年 ― 昭和18年12月1日徴兵、入隊となる)あって、原留1年生(時に20才。学生ならずとも徴兵になった)にて学園を去り、京都(当時、ぼくの住居は京の稲荷神社のほとり)を遠く離れて、朝鮮の平壌(今のピョンヤン)の郊外の原野に新設された師団の輜重兵へ。
1943年~45年8月の終戦までの間、在隊。幸いに覚悟の戦場行なく、45年末、南鮮を経て博多に還り直ちに復員帰郷。再び学校。卒業は47年。旧中学校・女学校の教員免許状(中国語にどうしてか国語も付いていた) 取得。
卒業後、立命館大学(二部:夜学)国文科へ進み、昼間は仕事。新聞記者を目指したが、記者はなく、あるのは広告取りのみ。とりあえず、これをやりつつチャンスを待ったが、折から新制中学校教員の募集あり、社会の朴鐸に変えて新日本を担う次代の子の教育(平和と民主主義)に及ばずながら貢献せんと心決めて応募。適性審査をパス。これより中学校教員スタート。出征入隊の時より、かえってこの時愛国心が燃えていたように思われる。
― の国語科教員としての経歴である。
※教員になるまでの経歴
京都府立(旧制)桃山中学校を1942年春卒業、天理外語(天理大学)支那語科に進学す。これは母方の祖父が信徒であり、教会主でもあって、できればその後継者たらしめんとした意図を受けてであった。
中国語を選んだのは、漢文好きに加えて中国好きもあってであるが、いずれ兵となれば中国の戦線へやられると推定し、その時に役立つかもとも思っていたからである。しかし教会にはついにかかわらなかった。
ただし、中国語はおもしろからず、専門外の国語や文学の方に傾き、あまつさえ、学校周辺に多々ある古代大和の史跡、社寺に大層興味を感じ、1年時後半は原留覚悟で読書や歴史めぐりに。
そこへ思わざる学徒出陣(文科系学生の徴兵延期の恩典、戦局重大化で廃止。1943年 ― 昭和18年12月1日徴兵、入隊となる)あって、原留1年生(時に20才。学生ならずとも徴兵になった)にて学園を去り、京都(当時、ぼくの住居は京の稲荷神社のほとり)を遠く離れて、朝鮮の平壌(今のピョンヤン)の郊外の原野に新設された師団の輜重兵へ。
1943年~45年8月の終戦までの間、在隊。幸いに覚悟の戦場行なく、45年末、南鮮を経て博多に還り直ちに復員帰郷。再び学校。卒業は47年。旧中学校・女学校の教員免許状(中国語にどうしてか国語も付いていた) 取得。
卒業後、立命館大学(二部:夜学)国文科へ進み、昼間は仕事。新聞記者を目指したが、記者はなく、あるのは広告取りのみ。とりあえず、これをやりつつチャンスを待ったが、折から新制中学校教員の募集あり、社会の朴鐸に変えて新日本を担う次代の子の教育(平和と民主主義)に及ばずながら貢献せんと心決めて応募。適性審査をパス。これより中学校教員スタート。出征入隊の時より、かえってこの時愛国心が燃えていたように思われる。
2009-01-29
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