1959年4月京都市立皆山中学校へ(1)
校長・教頭は共にベテランであった。生徒には勿論教師達へも思いやりをかけたし、親の生活苦、また無理解による不就学生家庭への訪問は、着任からずっと続いたが、ぼくがシンドくてもここでいつまでもいようと思ったのは、管理主義的態度をとらず、熱ある教師には自主性尊重でまかたぞ、で臨んでいたのが理由の一つだった。ただし6年いたが、これはできなかった。(後述)
教師の中には不意転という望まずしてここに来たものも多かった。教授・指導下手が多く、彼らは、やんちゃな子のリードは一層むつかしく、子どもばかりか仲間にも面倒をかけた。そして、しんどさと子どもの反抗にあって、わが命大事也と早く去って行った。教師集団はよく面倒を見たのだったが。
授業などの形は集団主義活動<班別学習>などであった。地域でも夜間の補習の実施があり、学生や青年有志も参加支援があった。学校では何かにつけて話し合い(会議・協議・研修の会など)が多く、それはまた長時間かけたもので、終わっても宿直室であらためてやったりした。それだけ子どもへの意思統一が大事なのだった。
・・・つづく・・・

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