2009-03-22

「ぼくの職歴」より(11)

1959年4月京都市立皆山中学校へ(3)

教組分会長5回、分会役員ずっと。前記の如く、組合の闘争つづいた中での役づきゆえ、これにてぼくはリーダーとして、また皆山を追われることになった。校長はうらまず、市教委をあらためてうらんだ。

ここでは中途6ヶ月、肺結核で入院せざるを得なかった。本来ならさらに入院ということであったが、ぼくは自己判断で、行政のストップも聞かず学校にかえった。困難に進んで当たらんとする熱意に校長がこたえて行政を説得したのだった。この入院中に徳島大学医局にいた次々弟を亡くした。惜しい弟であった。弟を失ったけれど、その前に長男誕生があった。弟は小児科医で、1年ほどの間にこの長男を2度ばかり診察してくれた。思い出深いことなり。

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