2009-03-15

「ぼくの職歴」より(7)

1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(2)

校長はやはり市中学校校長会の副会長(元工業高校数学科教師)で、学区内の地主で反動が進む市教組の教育長務める某氏や先の教育委員・地域の保守的ボス(育友会役員の多くを占める)と深くつながっているようであった。

学級数18の学校の教職員は40人近かったが、組合員は前任2校と比べるとかなり少なかった。反組合派の連中が、校長を奉り守りながら、最大事の生徒の管理・生活指導をリード(生徒は先生の言うことを聞くもの。聞かぬ者には厳罰で、彼等がつくる別室では昔ながらの問答無用で叩いたり、なぐるもあり)していたからびっくりものだった。

さらには、ここには株仲間のグループができていて、空き時間には図書室などに集まって「上った下がった。売れ買え」話。学校を出て株屋街(四条烏丸周辺の銀行・証券屋の町はごく近いところ)へ、といったこともあり、びっくりよりあきれものだった。知っているらしい教師や管理職も黙認していたのだった。この連中と戦いしこともあったが・・・。

・・・つづく・・・

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