○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(1)
ところは下京区七条大宮下る200米余の地。ここは広大な兵舎跡の学舎でなく、元青年学校跡で、方7~80米校域の中に南からちょっとした幼稚園並みの校庭(運動会時に50米の走路が何とか・・・)、それより北へ木造の古びた二階建て(下が教員室など、二階は教室)、講堂、さらに二階建てが二つ並び、教室(40人で満杯)数は16。何とも狭く窮屈な感じしたが、すぐになれて、狭いながらもわが家でここに5年。はじめから3年担任2年連続、そして1・2・3年と上って計3回も卒業生を出すことになった(今、はじめの卒業生71才)。いわゆる「すしづめ教室」時代で、貧しくもあったが、教師生徒ともによくがんばったし、意外に明るかった。前途に新日本建設の夢を見ていたから、!たしかに、この子らがそれからの新日本の働き手となっていったのだった。
・・・つづく・・・

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