○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(3)
島原が近く、生徒もかなり来ておれば、家庭訪問もあって、街を勉強せり。飲みにも行った。女生徒中に、芸ごとに励む子もあり、その連中によって芸ごとの何たるかを教えられもした。
倉庫・運送業者、ところがところなれば多く、豊かな家の子もあったが、多くのは小商い・職人・サラリーマンにてその子の進学はよくできても難しく、中卒にて就職が主。大を欲してもまだ少なく、松下ナショナルの工員なども高嶺の花なればトップ級の生徒が1・2ようやくパスして喜び合いたり。このころ多くの生徒は定時制高校に進めり。ために定時制高校は花ざかりで成績もよく、いま今昔の感あり。
中央卸売市場、校区にあり、問屋の子は皆ソロバン上手にて、その中には早くも塾を開き、経営する者ありたり。この子、高卒後、信託銀行に勤めたが、後、大手製薬会社にひきぬかれ、支店長を勤めあげる。この市場でアルバイトする生徒多かりき。
学年主任など役づきやりはじめたり。役づきなど望まず、ただの教師にてよきとしたが、この時代は今の任命制などなく、民主的に選ばれたれば受けたのだった。校長・教頭などの管理職には以後、一切なく終わったが、この主任は随分よくやった、否やらされたのだった。組合分会長も。
学校周辺には戦前からの映画館あり、宝座と言い、ここにて時に生徒の映画鑑賞会。その初めは「二十四の瞳」であった。
宿直中の深夜、二代目京都駅焼失す。金閣寺放火炎焼もあって驚かされた。
在職5年、三度目の卒業生を送るのをキリに転任希望。転任校は同区隣接校。梅逕中往復のバスの中より毎朝夕目にしていた郁文中へ。

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