2009-01-30

「ぼくの職歴」より(1)

主として35年に渡った京都市立新制中学校 ― 戦後の新学制・義務教育はこれより中学校三年間を加えて6・3制になり、中学校は1947年(昭和22年)4月スタート
 ― の国語科教員としての経歴である。

※教員になるまでの経歴

京都府立(旧制)桃山中学校を1942年春卒業、天理外語(天理大学)支那語科に進学す。これは母方の祖父が信徒であり、教会主でもあって、できればその後継者たらしめんとした意図を受けてであった。

中国語を選んだのは、漢文好きに加えて中国好きもあってであるが、いずれ兵となれば中国の戦線へやられると推定し、その時に役立つかもとも思っていたからである。しかし教会にはついにかかわらなかった。

ただし、中国語はおもしろからず、専門外の国語や文学の方に傾き、あまつさえ、学校周辺に多々ある古代大和の史跡、社寺に大層興味を感じ、1年時後半は原留覚悟で読書や歴史めぐりに。

そこへ思わざる学徒出陣(文科系学生の徴兵延期の恩典、戦局重大化で廃止。1943年 ― 昭和18年12月1日徴兵、入隊となる)あって、原留1年生(時に20才。学生ならずとも徴兵になった)にて学園を去り、京都(当時、ぼくの住居は京の稲荷神社のほとり)を遠く離れて、朝鮮の平壌(今のピョンヤン)の郊外の原野に新設された師団の輜重兵へ。

1943年~45年8月の終戦までの間、在隊。幸いに覚悟の戦場行なく、45年末、南鮮を経て博多に還り直ちに復員帰郷。再び学校。卒業は47年。旧中学校・女学校の教員免許状(中国語にどうしてか国語も付いていた) 取得。

卒業後、立命館大学(二部:夜学)国文科へ進み、昼間は仕事。新聞記者を目指したが、記者はなく、あるのは広告取りのみ。とりあえず、これをやりつつチャンスを待ったが、折から新制中学校教員の募集あり、社会の朴鐸に変えて新日本を担う次代の子の教育(平和と民主主義)に及ばずながら貢献せんと心決めて応募。適性審査をパス。これより中学校教員スタート。出征入隊の時より、かえってこの時愛国心が燃えていたように思われる。

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