1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(3)
生徒は貧しいものは極く少なく、一般に温順で人なつっこく、文句はなかったけど教師の方はいやな相手が多く、これでは、ここには長く居られないかも知れないといった予感や、さらに、近くなったはずの勤務校までの距離が、妙に遠くなったといった思いが、1ヶ月もしないうちにするのだった。そして、この長く居られないかもは、別の原因が大だが、2年にして現実化したのだった。
それは「逆コースを走り出した日本」のせいであり、直接的にはぼくが組合の分会長や本部評議員となり、いわゆる「勤評闘争(これより全国で数年に及ぶ。ねらいは、教師を昔のように国の言いなりに従わせ、平和や反戦についてとやかく言わせない)」に深くかかわったためであった。ぼくらは「勤評は戦争への一里塚」を念頭に、本務はおろそかにはせず、力戦奮闘し、その結果として処分を受け、結局、不本意ながらこれに抵抗(処分返上の人事委員会闘争)しつつも、在勤2年にして郁文中を追われた。後に3年に上る生徒を残しながら。
この時追われた者5名(分会役員)で、3名は府立の高校(府は勿論勤評反対で給料もよかった)へ移り、残るぼくと1人は行き手少なく、教師不足の皆山中学校(もと小学校で、本願寺門主の子弟の教育に当るために設けられたともいわれた。そのためか、その子や付き添いに来て仕える人の控え室も設けられていた)へ希望して転じた。
ぼくは郁文中在勤中にようやく結婚した。時に36才であった。遅いというべきだが、それなりの理由?あってだった。普通人になったのである。
祇園祭の山鉾巡行・大文字送り火復活。湯川博士ノーベル賞受賞。郁文中と梅逕中の中間にある平安高校、夏の甲子園で優勝。

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