○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(2)
ここでの思い出
梅逕とは人呼ばず、煤煙中学という。例の狭い校庭の南裏は細道をなかにしてすぐに山陰・東海道線のレールの波が東西に走り、SLの吐く煙は風次第で校舎を襲い、あまつさえ真裏中央に給水塔などあって、そこへSLがしげく来て煙をさかんに吐くこともあって、暑い季節は勿論、他時も窓あけ不能といった具合であったから。煙には慣らされ、香には中毒にも・・・。今からはとてもとても・・・の事であった。
常に東寺の塔が仰がれた。今日は新幹線の高架が向かい側の八条通り上を走って(町こわし反対騒ぎの後)塔どころではなくなったが。
京都駅は学校から東へ東山を望みながら歩いて7・8分のところにあり、西には、大宮通りが鉄道を越えて渡る高架橋の隣から広い梅小路の貨物駅(今は公園化)、機関庫(今はSLの有名な博物館)や鉄道員宿舎が並ぶ。貨物駅への車馬の出入りは終日にて、特に朝ひんぱん。通勤時、貨車より降ろされて屠殺場へ引かれてゆく牛群を見るのはかなしかった。
鉄道員の家庭からの生徒多く、SLの機関士がPTAの役員するもあり、中に2~3人、お召列車のすぐれた運転士もいて、親しく交際できたはうれしきことだった。
・・・つづく・・・

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