2009-03-22

「ぼくの職歴」より(11)

1959年4月京都市立皆山中学校へ(3)

教組分会長5回、分会役員ずっと。前記の如く、組合の闘争つづいた中での役づきゆえ、これにてぼくはリーダーとして、また皆山を追われることになった。校長はうらまず、市教委をあらためてうらんだ。

ここでは中途6ヶ月、肺結核で入院せざるを得なかった。本来ならさらに入院ということであったが、ぼくは自己判断で、行政のストップも聞かず学校にかえった。困難に進んで当たらんとする熱意に校長がこたえて行政を説得したのだった。この入院中に徳島大学医局にいた次々弟を亡くした。惜しい弟であった。弟を失ったけれど、その前に長男誕生があった。弟は小児科医で、1年ほどの間にこの長男を2度ばかり診察してくれた。思い出深いことなり。

2009-03-21

「ぼくの職歴」より(10)

1959年4月京都市立皆山中学校へ(2)

ここでのぼくの本務は1年担任2回、2年担任3回、3年担任2回に学習・生活・就職の指導係、研修誌編集などであった。市のはじめたカウンセリング講習会には3月間10回の参加命ぜられ、その初の係にもなり、伝達などに当たった。ぼくは子どもらに教師に対する要求会や批判の会をつくらせ、大いに保障した。ぼくも随分生徒からやられた。

全国で実施強行された「学力テスト」は差別助長のみとしてみんなで極力反対。実施反対の闘争に分会は全市の先頭に立った。
ここには特殊学級(今の養護学級)・夜間学級などもあり、担任は全国的にも名のある人々だった。ぼくもこの学級に出て教えることがあり、障害児教育の勉強もさせてもらった。

卒業式は子どもが主役ということで壇上に立たせて、読み上げでなく、一席やらせた。めでたいことばかりではなく、保守ボスやら市会議員から文句あったが。

・・・つづく・・・

2009-03-20

「ぼくの職歴」より(9)

1959年4月京都市立皆山中学校へ(1)

校長・教頭は共にベテランであった。生徒には勿論教師達へも思いやりをかけたし、親の生活苦、また無理解による不就学生家庭への訪問は、着任からずっと続いたが、ぼくがシンドくてもここでいつまでもいようと思ったのは、管理主義的態度をとらず、熱ある教師には自主性尊重でまかたぞ、で臨んでいたのが理由の一つだった。ただし6年いたが、これはできなかった。(後述)

教師の中には不意転という望まずしてここに来たものも多かった。教授・指導下手が多く、彼らは、やんちゃな子のリードは一層むつかしく、子どもばかりか仲間にも面倒をかけた。そして、しんどさと子どもの反抗にあって、わが命大事也と早く去って行った。教師集団はよく面倒を見たのだったが。

授業などの形は集団主義活動<班別学習>などであった。地域でも夜間の補習の実施があり、学生や青年有志も参加支援があった。学校では何かにつけて話し合い(会議・協議・研修の会など)が多く、それはまた長時間かけたもので、終わっても宿直室であらためてやったりした。それだけ子どもへの意思統一が大事なのだった。

・・・つづく・・・

2009-03-16

「ぼくの職歴」より(8)

1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(3)

生徒は貧しいものは極く少なく、一般に温順で人なつっこく、文句はなかったけど教師の方はいやな相手が多く、これでは、ここには長く居られないかも知れないといった予感や、さらに、近くなったはずの勤務校までの距離が、妙に遠くなったといった思いが、1ヶ月もしないうちにするのだった。そして、この長く居られないかもは、別の原因が大だが、2年にして現実化したのだった。

それは「逆コースを走り出した日本」のせいであり、直接的にはぼくが組合の分会長や本部評議員となり、いわゆる「勤評闘争(これより全国で数年に及ぶ。ねらいは、教師を昔のように国の言いなりに従わせ、平和や反戦についてとやかく言わせない)」に深くかかわったためであった。ぼくらは「勤評は戦争への一里塚」を念頭に、本務はおろそかにはせず、力戦奮闘し、その結果として処分を受け、結局、不本意ながらこれに抵抗(処分返上の人事委員会闘争)しつつも、在勤2年にして郁文中を追われた。後に3年に上る生徒を残しながら。

この時追われた者5名(分会役員)で、3名は府立の高校(府は勿論勤評反対で給料もよかった)へ移り、残るぼくと1人は行き手少なく、教師不足の皆山中学校(もと小学校で、本願寺門主の子弟の教育に当るために設けられたともいわれた。そのためか、その子や付き添いに来て仕える人の控え室も設けられていた)へ希望して転じた。

ぼくは郁文中在勤中にようやく結婚した。時に36才であった。遅いというべきだが、それなりの理由?あってだった。普通人になったのである。

祇園祭の山鉾巡行・大文字送り火復活。湯川博士ノーベル賞受賞。郁文中と梅逕中の中間にある平安高校、夏の甲子園で優勝。

2009-03-15

「ぼくの職歴」より(7)

1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(2)

校長はやはり市中学校校長会の副会長(元工業高校数学科教師)で、学区内の地主で反動が進む市教組の教育長務める某氏や先の教育委員・地域の保守的ボス(育友会役員の多くを占める)と深くつながっているようであった。

学級数18の学校の教職員は40人近かったが、組合員は前任2校と比べるとかなり少なかった。反組合派の連中が、校長を奉り守りながら、最大事の生徒の管理・生活指導をリード(生徒は先生の言うことを聞くもの。聞かぬ者には厳罰で、彼等がつくる別室では昔ながらの問答無用で叩いたり、なぐるもあり)していたからびっくりものだった。

さらには、ここには株仲間のグループができていて、空き時間には図書室などに集まって「上った下がった。売れ買え」話。学校を出て株屋街(四条烏丸周辺の銀行・証券屋の町はごく近いところ)へ、といったこともあり、びっくりよりあきれものだった。知っているらしい教師や管理職も黙認していたのだった。この連中と戦いしこともあったが・・・。

・・・つづく・・・

2009-03-06

「ぼくの職歴」より(6)

1957年4月・京都市立郁文中学校へ赴任(1)

ここは郁文小学校からの転用で、国有数の鉄筋コンクリート三階建て校舎三棟に体育館も持っていた。四条通りの繁華街に近く、阪急電車の四条大宮駅は京の西の玄関というべく、大阪梅田までは40分。ここの歴代小学校校長は市でのトップ級で全国の小学校校長会の役員を常に出していた。そのためか中学校の校長にも大物が当てられた。梅逕区とくらべると人口密で、飲食店多く、商業さかん、繊維製品業者も多く、経済的に豊かな地区だけに、学校への寄付なども多いということであった。但し、保守党の昔からの地盤で小ボス多く、中に市の教育委員もいて、学校教師への口出し、うるさいとか。

・・・つづく・・・

2009-03-05

「ぼくの職歴」より(5)

○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(3)

島原が近く、生徒もかなり来ておれば、家庭訪問もあって、街を勉強せり。飲みにも行った。女生徒中に、芸ごとに励む子もあり、その連中によって芸ごとの何たるかを教えられもした。

倉庫・運送業者、ところがところなれば多く、豊かな家の子もあったが、多くのは小商い・職人・サラリーマンにてその子の進学はよくできても難しく、中卒にて就職が主。大を欲してもまだ少なく、松下ナショナルの工員なども高嶺の花なればトップ級の生徒が1・2ようやくパスして喜び合いたり。このころ多くの生徒は定時制高校に進めり。ために定時制高校は花ざかりで成績もよく、いま今昔の感あり。

中央卸売市場、校区にあり、問屋の子は皆ソロバン上手にて、その中には早くも塾を開き、経営する者ありたり。この子、高卒後、信託銀行に勤めたが、後、大手製薬会社にひきぬかれ、支店長を勤めあげる。この市場でアルバイトする生徒多かりき。

学年主任など役づきやりはじめたり。役づきなど望まず、ただの教師にてよきとしたが、この時代は今の任命制などなく、民主的に選ばれたれば受けたのだった。校長・教頭などの管理職には以後、一切なく終わったが、この主任は随分よくやった、否やらされたのだった。組合分会長も。

学校周辺には戦前からの映画館あり、宝座と言い、ここにて時に生徒の映画鑑賞会。その初めは「二十四の瞳」であった。

宿直中の深夜、二代目京都駅焼失す。金閣寺放火炎焼もあって驚かされた。

在職5年、三度目の卒業生を送るのをキリに転任希望。転任校は同区隣接校。梅逕中往復のバスの中より毎朝夕目にしていた郁文中へ。

2009-03-04

「ぼくの職歴」より(4)

○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(2)

ここでの思い出

梅逕とは人呼ばず、煤煙中学という。例の狭い校庭の南裏は細道をなかにしてすぐに山陰・東海道線のレールの波が東西に走り、SLの吐く煙は風次第で校舎を襲い、あまつさえ真裏中央に給水塔などあって、そこへSLがしげく来て煙をさかんに吐くこともあって、暑い季節は勿論、他時も窓あけ不能といった具合であったから。煙には慣らされ、香には中毒にも・・・。今からはとてもとても・・・の事であった。

常に東寺の塔が仰がれた。今日は新幹線の高架が向かい側の八条通り上を走って(町こわし反対騒ぎの後)塔どころではなくなったが。

京都駅は学校から東へ東山を望みながら歩いて7・8分のところにあり、西には、大宮通りが鉄道を越えて渡る高架橋の隣から広い梅小路の貨物駅(今は公園化)、機関庫(今はSLの有名な博物館)や鉄道員宿舎が並ぶ。貨物駅への車馬の出入りは終日にて、特に朝ひんぱん。通勤時、貨車より降ろされて屠殺場へ引かれてゆく牛群を見るのはかなしかった。

鉄道員の家庭からの生徒多く、SLの機関士がPTAの役員するもあり、中に2~3人、お召列車のすぐれた運転士もいて、親しく交際できたはうれしきことだった。

・・・つづく・・・

2009-03-03

「ぼくの職歴」より(3)

○1951年4月1日・京都市立梅逕中学校に転勤(1)

ところは下京区七条大宮下る200米余の地。ここは広大な兵舎跡の学舎でなく、元青年学校跡で、方7~80米校域の中に南からちょっとした幼稚園並みの校庭(運動会時に50米の走路が何とか・・・)、それより北へ木造の古びた二階建て(下が教員室など、二階は教室)、講堂、さらに二階建てが二つ並び、教室(40人で満杯)数は16。何とも狭く窮屈な感じしたが、すぐになれて、狭いながらもわが家でここに5年。はじめから3年担任2年連続、そして1・2・3年と上って計3回も卒業生を出すことになった(今、はじめの卒業生71才)。いわゆる「すしづめ教室」時代で、貧しくもあったが、教師生徒ともによくがんばったし、意外に明るかった。前途に新日本建設の夢を見ていたから、!たしかに、この子らがそれからの新日本の働き手となっていったのだった。

・・・つづく・・・