○1948年10月31日 京都市立藤森中学校へ赴任(伏見区)
はじめ6ヶ月助教諭、一年生担当。翌年正教員となり、一年生を担当(男女共学にて、男20女20余)。併せて2・3年の国語も教える。
学舎は旧第16師団野砲隊跡にて、旧内務班の教室は外側の窓ガラス破れ、内側の廊下に面した速成窓は障子ばり。
新設のため校舎難。旧小学校舎転用、兵営使用しても不足につき、当中学校は砂川、竹田、藤森以外の月輪中学校と共同使用(1年余)で、学級数は30近く、生徒数は1000余。教師は40名余(旧小、中教員に新採用者、軍隊がえりの軍服軍靴・戦闘帽などの着用多)。雑然たる趣あるも、若き新採用教員のはりきりにて活気ありたり。
生徒は男の子より共学となりし女の子が溌剌。1年生女性が生徒会の会長立候補。わがクラスより副会長を出したことなつかし。今その子70代にて元気なり。
学校内は広く、南方後に近鉄が走り、北には旧練兵場(今は団地などの住宅地)、兵営跡(龍谷大・警察学校)、稲荷神社あって、北面する校門に立てば、北西にアタゴ山、北東にヒエイ山及び東山の峰が遠望されたり。
ぼくは当時、平安京の大極殿跡・二条城すぐ近くに住んでいたから、通勤は市電チンチン電車にて京都駅に出、伏見線に乗りかえて竹田駅下車、そこより徒歩10分で学校といった具合で、計およそ7・80分余りを要した。このために、別れづらかったが、2年に上がるクラス生を残して水くさくも1950年春、藤森中学校を去った。
志して教師になったこと、まことによしとしみじみ。三日にしてこれは生涯を賭けての仕事(天職?)と思いしこと。
授業の経験皆無ながら初めより、小中での体験の見よう見まねでうまくこなし得たりし(新米なれば時に授業指導の講習などあるも、さしたる恩恵は感じず)こと。軍隊での班長、分隊長としての兵教育や指導の苦労の益多々あり。
教え子と同じく民主主義ははじめてなれば、共に学ぶ如き感あり、それをうれしく、楽しく思いしことしばしば。新憲法についても同じく、折から文部省より出された「新憲法の話」については自らもよく学んで、その精神は以後の人生の指針となった。
時に臨時で社会科を教えることもあり、歴史科教師にたずね学ぶことも多く、皇国史観からの脱汚染を得たり。 時にかってめぐりし奈良の史跡(留年までしてめぐりし)に親しき教師仲間を連れ出し、大いに新日本を語りながら歩きたること。今盛んな正倉院展の第一回は、我もはじめてなれば、ただ一人にて行き、伝統文化について知ること多かりし。
若い新採教員の仲間から知友、親友を得たること。その中にはじめて社会科学をぼくに教えるものあり、大いに目を開かれたり。これは教員組合に入っていった大きな要因であり、以後定年までつづき、以後退職後の今も何かと御縁続行中。
知親友の中に文学を好むものあり、誘われて彼らのつくる同人誌に参加し、柄にもなくもの書き出し、今も何かと付き合い、折々に筆執っているのは、ここからであった。
酒が呑める自分を知り、好きにもなる。溺れることも仕事をだめにすることもなかった(ほんとう?)が、以来60年、未だにタバコと同じくやめ得ざることとなれり。
ここでの校長は内藤孫三郎。明治生まれ、丹波産で戦前よりの教師で、付属小学校訓導、女学校・女子師範教諭、視学官を経て、戦後、不適格にもならず新制中学校校長となっただけに経験豊富は勿論、先生の先生たる視学でもあったゆえに学習指導・生活指導にも練達で、その教えるところは新米のぼくにありがたかった。好学の努力家は、英語の時代来るゆえにその習得のために自らの英語科教師を立てて英語クラブをつくり、教師たちに学習奨励、校長室へ、昼休み放課後などに集めては、先頭になって学んでいた。年寄りの冷や水とぼくはひやかしたりしたが、内心では感銘覚えていた。
この後、あまりすぐれた校長には出会えなかったが、明治生まれのこの校長には、よくけんかもしたが、心ひかれもした。
内藤氏との個人的かかわりについて少し触れておくことにする。それは、わが母方の叔父小母4人が小学校で彼の世話になっており、それが彼の思いに残り、君はあのよき子達の甥か、といってぼくに好意をよせてくれたのだった。出来ぬ子のぼくは誇りと共につたなき我にコンプレックスを感じたが・・・彼は退職後、友の経営する私立女子高を手伝い、数学を教えたが、そこへわが妻が被服科教師として勤めて彼を知ることになり、そして「孫さん孫さん」と愛称で呼ぶことにもなっていったのだった。彼は百近くでなくなった。
2009-01-31
2009-01-30
「ぼくの職歴」より(1)
主として35年に渡った京都市立新制中学校 ― 戦後の新学制・義務教育はこれより中学校三年間を加えて6・3制になり、中学校は1947年(昭和22年)4月スタート
― の国語科教員としての経歴である。
※教員になるまでの経歴
京都府立(旧制)桃山中学校を1942年春卒業、天理外語(天理大学)支那語科に進学す。これは母方の祖父が信徒であり、教会主でもあって、できればその後継者たらしめんとした意図を受けてであった。
中国語を選んだのは、漢文好きに加えて中国好きもあってであるが、いずれ兵となれば中国の戦線へやられると推定し、その時に役立つかもとも思っていたからである。しかし教会にはついにかかわらなかった。
ただし、中国語はおもしろからず、専門外の国語や文学の方に傾き、あまつさえ、学校周辺に多々ある古代大和の史跡、社寺に大層興味を感じ、1年時後半は原留覚悟で読書や歴史めぐりに。
そこへ思わざる学徒出陣(文科系学生の徴兵延期の恩典、戦局重大化で廃止。1943年 ― 昭和18年12月1日徴兵、入隊となる)あって、原留1年生(時に20才。学生ならずとも徴兵になった)にて学園を去り、京都(当時、ぼくの住居は京の稲荷神社のほとり)を遠く離れて、朝鮮の平壌(今のピョンヤン)の郊外の原野に新設された師団の輜重兵へ。
1943年~45年8月の終戦までの間、在隊。幸いに覚悟の戦場行なく、45年末、南鮮を経て博多に還り直ちに復員帰郷。再び学校。卒業は47年。旧中学校・女学校の教員免許状(中国語にどうしてか国語も付いていた) 取得。
卒業後、立命館大学(二部:夜学)国文科へ進み、昼間は仕事。新聞記者を目指したが、記者はなく、あるのは広告取りのみ。とりあえず、これをやりつつチャンスを待ったが、折から新制中学校教員の募集あり、社会の朴鐸に変えて新日本を担う次代の子の教育(平和と民主主義)に及ばずながら貢献せんと心決めて応募。適性審査をパス。これより中学校教員スタート。出征入隊の時より、かえってこの時愛国心が燃えていたように思われる。
― の国語科教員としての経歴である。
※教員になるまでの経歴
京都府立(旧制)桃山中学校を1942年春卒業、天理外語(天理大学)支那語科に進学す。これは母方の祖父が信徒であり、教会主でもあって、できればその後継者たらしめんとした意図を受けてであった。
中国語を選んだのは、漢文好きに加えて中国好きもあってであるが、いずれ兵となれば中国の戦線へやられると推定し、その時に役立つかもとも思っていたからである。しかし教会にはついにかかわらなかった。
ただし、中国語はおもしろからず、専門外の国語や文学の方に傾き、あまつさえ、学校周辺に多々ある古代大和の史跡、社寺に大層興味を感じ、1年時後半は原留覚悟で読書や歴史めぐりに。
そこへ思わざる学徒出陣(文科系学生の徴兵延期の恩典、戦局重大化で廃止。1943年 ― 昭和18年12月1日徴兵、入隊となる)あって、原留1年生(時に20才。学生ならずとも徴兵になった)にて学園を去り、京都(当時、ぼくの住居は京の稲荷神社のほとり)を遠く離れて、朝鮮の平壌(今のピョンヤン)の郊外の原野に新設された師団の輜重兵へ。
1943年~45年8月の終戦までの間、在隊。幸いに覚悟の戦場行なく、45年末、南鮮を経て博多に還り直ちに復員帰郷。再び学校。卒業は47年。旧中学校・女学校の教員免許状(中国語にどうしてか国語も付いていた) 取得。
卒業後、立命館大学(二部:夜学)国文科へ進み、昼間は仕事。新聞記者を目指したが、記者はなく、あるのは広告取りのみ。とりあえず、これをやりつつチャンスを待ったが、折から新制中学校教員の募集あり、社会の朴鐸に変えて新日本を担う次代の子の教育(平和と民主主義)に及ばずながら貢献せんと心決めて応募。適性審査をパス。これより中学校教員スタート。出征入隊の時より、かえってこの時愛国心が燃えていたように思われる。
2009-01-29
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